ART as a Communication Tool

私にとってアートとは、個人の社会に対する姿勢を指します。 人と人とが出会うところに「他者」の概念が生まれ、「他者」との関わりあいかたへの考察は、やがて「社会」という概念に発展します。私の芸術活動は「あなた」と「わたし」との間の、コミュニケーションツールであると考えています。 

 

The Epoch of the Globalization

今日、私達の社会はグローバリゼーションという、経験的な成長の時代に達しました。現在近代社会での、習慣的、経験的、政治的、経済的、環境的、多くの社会的運命はすべて、相互関係の親密化の段階を迎えています。この複合的に結合されたグローバライズ社会で私は、単体の美術作品そのものよりも、ローカルの文化に接近する美術的努力に興味を持っています。

 

Practice: Cultural Sketch

私の創作は、私自身を異なる環境(外国のように異なる文化や歴史、或いは環境や科学のように、専門的な知識を持たない分野)に置くことにより、それらに適応してゆこうとする過程、理解の及ばない物事を、それまでの知識からどうにか理解してゆこうとする過程に発生する、極端な思い込みや間違った解釈に起因します。

私は平凡で日常的で無意味に見えるものにこそ、地域の文化的様相を特徴付ける最も重要な要素が含まれていると考えています。私は(私にとって)奇異に見える環境・文化の中で、特に日常的と捉えられている物事に注目します。そしてそれらを直感的に組み変えることにより、意図的な奇妙さを生成しようと試みています。

このプロセスは、ある文化が意味するところと、私に意味をなすところの差異を、明確にするのを手伝います。基礎知識を共有していない文化の中では、「意味するところ」は何事も意味せず、高度に記号化された意味は無効化します。

今日、私たちの社会は国際社会の行動と反応に非常に敏感です。そして、異文化間の出会いの中には、多くの誤解や間違った翻訳があります。

私のサイトスペシフィックな作業は、特定の文化のある側面を紹介します。しかし、私の芸術的関心は、すでに承認された文化的アイデンティティを促進することではありません。誤解の持続は、私たちの現実の思考に、より多くの想像力と創造の道を開くことができます。「勘違い」は時々、予想されたよりも遥かに興味深い地点へと、私たちの思考を運んでゆきます。したがって私の芸術的関心は、異文化間の誤訳を修正するような作業ではなく、むしろ、非常に個人的な憶測や思い込み、偏った解釈に焦点を当てて、その差延の領域を拡大しようとする作業にあります。

私はインスタレーションを主に制作しますが、スタジオで既に完成した作品を現場に単に運び込むのではなく、対象の特異性(日常性)に変化を加えることにより、無意識のイメージを視覚化しようと試みています。対象からの印象を率直に捉える為に、私は形式化した方法論を持ちません。私の作品は素材の面からも視覚的な面からも、明確な相似性を持っていません。しかしいずれの場合においても、対象から得られた直感的、個人的な印象を、現地の状況に対して柔軟にありながら、極力シンプルな方法で描きとめようと試みています。これらは日常の非日常的な解釈か、或いは異なる方法を用いた文化のスケッチに似ています。 

 

Statement

地域文化の観察は、グローバル化する現代社会の観察でもあります。今日私たちの社会が直面している現象のひとつは、オーバーコミュニケーションとも呼べる、経験的裏づけの希薄な、情報の過剰な先行状況かもしれません。私は、実際に異なる文化圏を移動する創作活動によって、「スペシフィック・ワーク」の一層の可能性を探っています。それは単に屋内作品に対しての野外作品という発想ではなく、あるいは地理的条件を考慮した設置作品という意味合いでもなく、むしろ現地の文化的状況を考慮しなければ成り立たない、現実的ながら特殊な創作の姿勢を意味します。

一方的に作品を展示するだけではなく、もっと日常的でもっと非日常的な、等身大の現実に注目する。それが私の作家としての興味の中心であり、グローバル化した社会の中での、個人的な態度でもあります。  

 

 

2015年9月 石井 潤'一郎

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