Log de Voyage華の都

 

東南アジア系移民の金切り声。赤ん坊の鳴き声。降車口のドアを力任せにこじ開けて乗り込んでくるアフリカ系移民。

「Ce n'est pas possible!」
(ありえない!)

どこからか上がる声。いい加減うんざりするような混み具合。華の都パリ、市営バス。

今しがた席を立った老人の後の、空いた席にめがけて飛び込むマダム。そいつが気に食わないと不平をいう別のマダム。首尾しゅびよく座席を獲得したマダムは、ヘッドフォンをした自分の耳を指差しながら

「Je n'entends pas!」
(わたし聞こえない)

なんて、実際なかなか聞かない言い訳。

一際甲高い赤子の泣き声。渋滞に巻き込まれたバスは、扉を閉めても停留所から動けない。携帯電話口で盛り上がりながら、今しがたバス停にやってきて、のこのことバスに乗り込もうとして拒否された男が、何だか運転手とやり合ってる。

拒否したのは運転手じゃない。乗車口付近、最後にバスに乗り込んだやつらだ。彼らも同じように、彼らの直前にバスに身体をねじ込んで来た客に「もう無理、乗ってくんなよ」と拒否されていたにも関わらず。

……最後に到着した者が、新しくやってくる者を拒絶する。「すでに席を確保した者」には関係のない話。華の都パリ、十七区。うんざりするような移民の群れ。窓に映るアジア人の顔はわたし。

——知ったこっちゃない。

わたしは身体をよじるようにして車内の奥の方へと少し詰める。やがて、青空に流れ込んできた黒雲から、窓の外には今大粒の雨が撃ちつけ始めた。

フランス語「B1」の授業が始まりました。「中級フランス語」最初の課題は……

「C'est un vrai goujat, cet homme! Tout le monde le fuit comme la peste!」

だそうです。

丁寧に訳しますと……

「あいつマジでゲスよね!みんなあいつのこと避けてる、ペストみたいに!」

だそうです。つまり「ゲスの扱い方」です。

公立語学学校の授業としては珍しい気もしますが、パリ市推薦の教科書に載っております。フランス人はこうして嫌味の表現を覚えてゆくのですね。

数週間前まで「ジョン=シャルルはパスカルよりも背が高い」などと勉強していたような気もしますが、高度な内容に達したということでしょうか。ある映画の中にあった「フランス語は『ののしる言葉』がたまらなく感じさせる」なんて台詞を思い出しました。

さて、そんな「ののしり」は日本語に翻訳しますと今ひとつ「感じ」させませんが、ともあれ中級フランス語、最初のフレーズはフランス語のままで覚えることに致します。

ある意図を持ったコミュニケーション行為が、他者に伝達されるためには、受け取り側も行為の意味するところを了解していなければならない。

そこには社会的、そして文化的な共通認識が求められる。アメリカの言語学者、デル・ハイムズは、その認識を「コミュニケーション行為の解釈に関する知識を共有している共同体」、すなわち「スピーチ・コミュニティ(言語共同体)」と呼んだ。

あるスピーチ・コミュニティの中で、円滑えんかつな言語活動を行うためには、まずコミュニケーションを行う相手に「十分な量の情報を与える」ことが必要である。それから「自分では間違いだと思っているような、質の悪い情報は与えない」こと。また相手を混乱させないように「関係ないことは話さない」、そしてお互いの合意に基づいた「形式に乗っ取って話す」ことが必要である……と言ったのはイギリスの言語学者、ポール・グライスで、これは「協調原理」と呼ばれている。

ところで、そうした協調の原理に従って、いつも「本当のこと」ばかりを喋っていると、たしかにそれは「正しい」のかもしれないけれど、あまりあからさまに「本当のこと」ばかりを言われてしまうと人は時々傷ついてしまう。だからそこに「人を傷つけないように」という「配慮」が生まれる。その「配慮=気遣い」のことを言語学では「ポライトネス」と呼ぶのだけれど、まぁ平たく言ってしまえば(優しい)「嘘」である。そして、相手のことをおもんばかったこの「嘘」つまり「配慮」の方法は、当然「スピーチ・コミュニティ(言語共同体)」ごとによって異なっている。

アメリカの文化人類学者エドワード・ホールは、著書『文化を超えて』の中で、世界中の言語コミュニケーションの型を「高文脈文化」と「低文脈文化」に分類した。

「ハイ・コンテクスト(高文脈) ロー・コンテクスト(低文脈)」とはいうものの、これはどちらが優っている、劣っているというような話ではなく、単に類型的な分析である。

ホールは……

『高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式であり、その最極端な言語として日本語を挙げている。

一方の低文脈文化のコミュニケーションでは、言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる。最極端な言語としてはドイツ語を挙げている』
高・低文脈文化 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】

と云う。

例えば。近しい文化背景を持った人々が集まって長い時間同じ土地で共同生活を続けていると、言語内に共有(蓄積)される記憶(情報)の量が増えてくるから、意思の疎通は少ないサインの交換だけでも可能となる。

——以心伝心、阿吽の呼吸、そんなことまで言わせないでよ……

高度に象徴化された「ほのめかし」は、「ハイ・コンテクスト」の言語共同体において有効なコミュニケーション手段として機能する。

一方で、異なる文化背景を持った人々が集合して言語共同体を営んでいる場合、「語」が暗に示唆(含蓄)する「意図」が次第に不明瞭となってゆくので、意思の伝達には常に正確さが求められる。

——結婚式のための教会使用の許可にあたって念のために尋ねますが、あなたは今までにあなたの伴侶を殺害したことはありますか?

——では、あなたは今までに胎児を含む、あなたの子供を殺害したことはありますか?

——では、あなたは今までに、あなたの血縁家族を殺害、あるいは殺害の計画および実行に関与したことはありますか?

……いや、なに、あくまで形式的な質問ですよ。だって尋ねなければわからないでしょう?

大昔から異文化の往来が活発だった土地や、移民や多民族によって成り立っている社会などの多くは「ロー・コンテクスト」であると云われている。そして「ハイ・コンテクスト」に慣れ親しんだ人々にとっては、「ロー・コンテクスト」におけるやり取りは「あからさま」で、時に露骨ろこつ無粋ぶすいにさえ感じられるのである。

「ロー・コンテクスト」文化における「伝達」は、言葉が大きな位置を占めている。言語により態度を明確にすること。故にそこには正確さが求められる。当然「契約」も双方の完璧な合意によって行われるため、一度契約を結ぶとその変更は容易ではない。意思決定は理論的に行われ、また会話の途中に訪れる「沈黙」は、コミュニケーションの断絶とみられ不快にさえ感じられる。

対して「ハイ・コンテクスト」文化において交換される情報は、言語の「含み」に大きく依存するので、「空気」のような曖昧さを持っている。双方の合意も「一般的な共通認識」に頼るため、状況によってコロコロと変更(忖度そんたく)されてしまう。意思決定は感情的に行われ、会話の途中に現れる「沈黙」も、互いの暗黙の合意に基づいている場合が多いから決して不快なものとは捉えられない。

こうして考えてみると、確かに日本は「ハイ・コンテクスト」文化であり、ドイツやアメリカは「ロー・コンテクスト」な文化である。そしてフランスは……

パリの「当然」は、街のいたるところに転がっている。

日曜日は「当然」お休み。「当然」誰も働かない。「当然」バスの本数も少なく、「当然」街は閑散とする。

「担当者は九月までヴァカンスをとっているので、メールの返信は九月以降になります」

——C'est normal,
当然でしょう。そしてその間にヴィザが切れてしまえば、当然わたしが悪いのであります。

「アパルトマン契約がないとヴィザの発給はできません。そしてヴィザがないと、アパルトマンの契約はできません」

——C'est normal,
まったく当然のロジックであります。そりゃぁそうさ、すべてわたしが悪いんだもの。

当然、わたしはそれに従うしかなく、すべてが実に当たり前に……それにしても。街を動かしている根本のアイデア違う、わたしにはそう思えるのであります。

「Bonjour!」
(ボンジュール!)

郵便局からはみ出す勢いで並んでいたパリ一〇区、「ボンヌ=ヌーヴェル(Bonne Nouvelle=よい知らせ)」駅前の郵便局。たっぷりと四五分も待たされたわたしは、せいぜい愛想好く「こんにちは!」と。
カウンターには中年のマダム。たっぷりと一〇秒はシカトを決め込んで

——今

——ゆっくりと

——自分のタイミングを見計らい

——さて

——ようやく

——「Oui monsieur?」
(はい、ムッシュー?)

「で?」と言わんばかりの投げやりなご様子。やれやれ、明らかに「サーヴィス」という概念が、わたしの思うものとは異なっているね。

「これ、お願いします」

一〇通の大型国際普通郵便をカウンターに差し出す——と、マダムはあからさまな溜息。実に判り易い「当然」の反応。よぉくわかるよ、面倒くさいもんね、一〇通。でも「Ce n'est pas mon problème, わたしの知ったこっちゃないよ」ちゃんと仕事してね、と知らん顔を決め込むのがこの言語共同体での正解の態度であります。

それにしても。本日の郵便局はいつにも増して混雑している。切手の自動販売機の故障のせいか、それとも原因はどこか別にある?

カチャカチャとキーボードを叩く音がして、やがて切手がプリント・アウトされてくる。手続き開始からすでに五分、たっぷりと待たされる意味がよく判るね……っておや?わたしはモニターを見つめるマダムの口元が、時々ちらりと上がることに気がついたね。

「さてと……」待ちくたびれたフリなんかして、わたしはさりげなく移動してみる、ついでにちょいと首の運動でも……って、ホラ!見えたよ、見えた!見たことあるよ、その画面!

郵便局から溢れ出す行列を前に、そして局内に充満する諦めと苛立ちのムードの只中、この中年のマダムは、なんと(驚くなかれ!)現在「メールをチェック中」なのであります。

ふぅむ、言語の不自由さを呪うのはこんな瞬間であるね。気の利いた嫌味のひとつでも言いたいところ。

「Il y a plein de Bonne Nouvelle c'est pourquoi le Bonne Nouvelle sont plein…」
(今日は「ボンヌ・ヌーヴェル(よい知らせ)」がメールボックスにいっぱいなので、「ボンヌ=ヌーヴェル」駅前郵便局は待ち客でいっぱいだ……)

うぅん、今ひとつ……

さて、そんなこんなでパリに拠を据え早くも十数年が経ちました。わたしのフランス語はいまだにひどいものなのですが、それでも少しづつ不便は減ってきて、日々は決して「華やか」とは言えないけれど、慣れれば快適、それなりに楽しく過ごしていたのでありました。

そんなある日、フランスに生活するために必要な「滞在許可証」に関して移民局から連絡が入り、近日中に証明写真を三枚提出することになりました。尋けば、許可証がこの度めでたく一〇年毎更新のものに切り替わるということで、わたしにとっては実に素晴らしい「ボンヌ・ヌーヴェルよい知らせ」、写真はこの手続きに使うのだそうです。

それで。時同じく、ちょうど電話のあった月曜日あたりから、まぁ滅多に出来ることのないニキビが、これまた滅多に出来ることのない鼻の頭あたりに、突如として浮かび上がってきたのであります。しかもポツンと出来るんだったらまだしも、じわっと周囲が赤くなる、つまり何処から何処までが患部だか判らない、実に厄介なやつであります。ひとまずハーブの香りのする薬をつけて、様子をみてはいるのですが……

そういった訳で。

移民問題に揺れる昨今の欧州。フランスでも滞在許可証の延長がますます厳しくなってきているというこの状況の中で、現行最長である一〇年の許可証に切り替わるというのは改めて光栄なことで、つまりわたしはこれから一〇年間、面倒な更新手続きからは解放されるわけで、そしてこのまま見事にカードが発給されてしまうと、わたしはここ華の都パリにおいて、少なくとも今後一〇年間は、鼻の頭がずっと赤いままとなるのであります。

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【Log de Voyage】 は2019年より不定期更新となります。次回をお楽しみに!

text and illustrations © 2016 Log de Voyage

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