季節外れのツクツクボウシが鳴いている。
否、それは「日本の季節」外れであって、「ここ」では季節外れに当たらないのかもしれない。
——十二月。台北。
台湾は福建省の東だと思っていたけれど、沖縄の南だと思うことにした。つまり、想像した以上に南国。地図によれば、滞在しているスタジオから東に見えるあの山の向こうは基隆市で、そこから一〇〇キロほど海を渡ると与那国島。たしかに南国、半袖の冬。「昨日は少し寒かったから窓を閉めて寝たね」ふと気づく、師走半ばのこの会話。
滞在している美術館の食堂で、近くに住んでいる、語学が堪能な「マミー」と昼食を共にする。
マミーはイギリス生まれの台湾人。語学教師をしながら三〇年間をアメリカで過ごし、さらに三〇年を中国の各地とミャンマーで、八〇歳を迎えた現在は台北市の美術館のそばに住み、展覧会の度にやって来る様々な国籍のアーティストの作品を、シニア・パスで観に行くことを楽しみにしている。
ビルマ語を充分に、タイ語を不便がない程度に、英語と米語を正確に区別して、官話(北方話)と広東語、台湾語に加えて客家語も話す。
「……言語は通じるためにあるわね。コミュニケーションの道具よ。だから通じないのはダメ。わかるように話すのが一番だわ。同じ言語を使っていても理解できない場合はどうしようもないわね」
ひと言に「中国語」といっても、大きく七つもの方言があるという。
「それに比べるとアートは考える時間よ。理解できない場合も多いわ。でもだから面白いの。これは何だろう、って考える。これもひとつのコミュニケーションね。言葉のような形では伝わらないけれど、とても親密な方法よ」
経験豊かな人物と話すのは楽しい。近頃は日本語も勉強しているというマミーは
「日本へは何度か旅行で行ったことがあるわ。とても「ハイ・コンテクスト(高文脈)」な社会ね。言葉も新鮮だわ」
『高文脈文化・低文脈文化』というのは一九七〇年代後半から使われ始めた言葉で、言語コミュニケーションがどの程度土地の文脈に依存しているのかを説明する。
「高」と「低」とはいうものの、これはどちらが優れている、という話ではなく、ハイ・コンテクストの社会は、意思の疎通に社会の共通認識ともいえる「文化的文脈」を用いる程度が高く、ロー・コンテクストの社会はそれが低い。低文脈文化に数えられるのはドイツやアメリカ。フランスはどちらの側面も持ち合わせているとされ、日本は高文脈文化の代表であるともいわれている。
例えば、同じ人々が長く同じ場所に住み続けていると、共有する情報がどんどん増えてくる。ハイ・コンテクストの社会は、日常的なコミュニケーションにもその共有情報を使用する。説明は簡略化され、意思表示も時として、わずかな仕草や「仄めかし」だけで意味を成すようにさえなってくる。ここでは「沈黙」もひとつの言語であるから、「空気」なんか特に重要で、人々の合意も「忖度」なんかで決まったりもする。
実際に言葉として発せられた内容よりも、言葉にされていない部分を重んじ、会話には「意図を汲む」能力が求められる。
「そこまで言わせないでよ」なんていうのは親密の証であり、つまり長年連れ添った夫婦の間にあるという「阿吽の呼吸」のようなものが良しとされ、最終的に行き着く先、至上の意思伝達方法とはおそらく「以心伝心」(思うだけで心が伝わる)のようなものだろう。ちなみに「アート」の業界はハイ・コンテクストである。
一方のロー・コンテクストの文化はどうかというと、ここでは意思の疎通はすべからく具体的に言語化されなければならない。だから意思表示は時に「あからさまに言う」ような形で行われ、「沈黙」はコミュニケーションの断絶を意味するから厭われる。
的確な内容を洗練された手法で伝達するプレゼンテーション能力や、背景情報を違える他者とも活発に情報交換できるコミュニケーション能力などが社会生活に重要な資質だと考えられ、つまり他人は他人、考えは形にしなければ伝わらない。
一見薄情なようにも思えるけれど、考えてみれば自分に良いことが他人にも良いとは限らないのだから、他者の意思を尊重しようとしたら社会は必然的にそうなる。国際的に成長した社会とは、活発な交流を通じて「他者と理解し合えた」と考えるよりも、交流を通じて「未だ理解し合えない」という認識を深める社会である。
ロー・コンテクストの社会では、契約も論理的な思考による双方の合意の上でなされる。だから当然きちんと書き起こされる必要があり、書かれていないことを「慮って」行うことも、同じようにまた契約違反となる。
「合理的といえば、中国の古い話にこんなのがあるわ」
食後のコーヒーを飲みながらマミーはいう。改めて十二月。外では気温に素直な蝉が鳴いている。
「昔、ある国の王様がお酒を飲みすぎて、酔っ払って眠り込んでしまったの。で、それを見た冠係りの者が、王様が寒そうだ、と毛布をかけたのね。しばらくして王様は目を覚まして、毛布がかけられていることを知って嬉しく思ったんだけど、誰が毛布をかけたのか?と周囲に尋ねたところ、冠係りの者だ、と言うのを聞いて、衣係りと冠係りのふたりに罰を与えたの。衣係りは自分の仕事をしなかったから、そして冠係りは自分の仕事以上のことをしたから、というのね」
ふぅむ、厳しい。厳しいけれど、しかし合理的に考えるというのはそういうことなのかもしれない。韓非子という人が記した、この「形名参同」という話は「国を治める者の心得え」として説かれたものなのだそうだ。曰く「官を侵すの害は寒きよりも甚だし」。
◇ ◆ ◇ ◆
さて、そうして昼食後もお喋りを続けていると、マミーとも顔なじみの美術館のボランティア・スタッフがやって来た。わたしは矢次に質問を受ける。
あんたが今回の滞在作家の内のひとりか?国籍は?年齢は?もうひとりの滞在作家には会ったか?台湾の印象は?いつここに来ていつまでいるのか?結婚はしているのか?子供は?……
……といったところでマミーが口を挟む。
「ちょっとあなた、初対面でそれは失礼よ。メインランド・チャイナの人もよくやるけれど、年齢、結婚、プライヴェートな質問。西洋社会ではエチケット違反で笑われるわよ」
……そりゃそうだ。しかしまぁ、それは中国語話者に限った話でもない。
おいくつですか?お仕事は?ご結婚は?お子さんは?……確かにヨーロッパでは無粋を笑われかねないこの種類の質問を、話のきっかけとしてアジア人は好む。失礼だという自覚もない。というよりも、社会がそれを失礼だと考えていないのだから当然である。
日常がハイ・コンテクストであればあるほど、意思の疎通が疑わしい異文化と出会った場合、思考は素朴で低文脈なものとなる。基礎情報の欠落は不安材料であるから一刻も早く解消されねばならず、かくしてあからさまな質問事例が、ガイドブックの末尾付録なんかにも正しい発音記号付きで掲載される。……おいくつですか?お仕事は?ご結婚は?お子さんは?……
それにしてもまぁ、個人的には尋問のようなやり取りは苦手であります。会話は相手を知るために少しづつ進めてゆくのが楽しいのであって、個人的な情報は自らが提示する「手持ちのカード」のようなものであってもらいたいとも思うのです。
ところで気をつけなければならないのは、東アジアでアジア人のわたしがそういったことを口にすると、時に過剰な反応も起こりかねない。曰く
「ここはアジアで我々(we are)はアジア人だろう?」
事実、今目の前のボランティアの男性は、親しそうに笑いながらもそういったことを言っている。
……うぅ~ん、ちょっと雑すぎやしない?
別にそうそう「違う」とも思っちゃいないけどね、we are 同じ、とくくられるのはどうかと思う。人はそれぞれに異なっている。だから「違い」に興味がある。もちろんその「違い」とは、年齢や結婚、収入の額に起因するものではない。
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Illustration by Kaori Mitsushima |
◇ ◆ ◇ ◆
後日。
同じプログラムに参加していた「もうひとりの滞在作家」、英国人のダンカン博士は大学での長いプレゼンテーションの締め括りにこう尋ねた。
「何か質問はありますか?」
それからゆっくりと聴講客を見渡して、こう付け加えた。
「わたしの国籍以外について」
……ヒューモアは大切な態度であります。
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