Log de Voyage黒いバター

 

 

夜の海は黒いバターみたいだ。

そう思ってからバカみたいだと考えた。黒いバターなんて見たことがない。
潮の香りの立つ海辺の丘。おぼろな月に照らされて、眼下にねっとりとした黒がたゆむ。

黒海——トルコからブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、そしてグルジアに囲まれた内陸の海。『ホメロス・オデュッセリア』でアルゴー探検隊が、迫りくる岩の海峡を抜けて黄金の羊の皮を求めに出た海。

「何にも見えないな」

少し遅れて丘を登ってきたノレッティンがいう。
ザザザと打ち寄せる波の音。エンド・オブ・イヤーのパーティに盛り上がるイスタンブールを脱け出して、私たちは黒海の沿岸までやって来た。

◇ ◆ ◇ ◆

「ブラックシーを見に行くのはどう?」

年長の友人、ノレッティンがそう提案したのは、彼が経営するデッサン・スクールで年内最後のクラスを終えた大晦日おおみそか の夕方だった。トルコ、イスタンブール。明くる年に参加する展覧会の現場の下見に来ていた私は、そろそろ四週間もこのデッサン・スクールの階上に寝泊まりをしている。食事の心配をしないでよい代わりに、クラスで時々デッサンを教える、私たちの間にはそんなディールが成立していた。
春に美大への受験を控えた生徒たちは、「メリークリスマス & ハッピーニューイヤー!」なんていいながら年末の休暇きゅうかへと入っていった。クリスマスなんてもう一週間も前に終わっているというのに、回教徒の多いトルコでは「メリークリスマス」の言葉の意味がズレてしまって、漠然ばくぜんとした年末の挨拶句になっているんじゃないか、そう考えると少し可笑しかったが、考えてみれば仏教徒の私だって、正しく「メリークリスマス」しているわけじゃなかった。

教室の施錠せじょうを受付のアイシャに任せて、私たちは外に出た。どこへゆこう?ボスポラスを渡ってトラムでガラタの丘を登り、年末のタクシム・スクウェアへ行ってみるのもよかったが、ノレッティンは人ごみを好む人間ではなかった。

カディキョイの船着場前でサーディンのサンドウィッチと焼き栗を食べて、熱いトルコ紅茶を飲んでから、黒海までドライブに行こうという話になった。空は重たくどんよりと曇り。連絡船の汽笛と夕餌を求めるカモメの声が高く響く。チャイを運んで来た店の親父は代金を受け取ると、「メリークリスマス」といい、私も「メリークリスマス」と答えた。親父の眉毛も羽を広げたカモメのようだった。

 

Illustration for Log de Voyage

Illustration by Kaori Mitsushima

 

◇ ◆ ◇ ◆

Deniz(デニス)」というのはトルコ語で「海」というのだそうだ。「カラ」というのが「黒」という意味で、だから「黒海」というのは「カラ・デニス」というのだそうだ。フォルクス・ワーゲンのハンドルを握る、ノレッティンがそう教えてくれた。

町を抜けると空気に小雨の粒が舞い始め、小雨はやがて霧へと変わった。ヘッドライトを反射して、目の前は一面、白く光る。ガラスのくもりとの区別がつかず、私はフロントガラスを何度も拭った。

「世の中はどんどん悪くなってきてる。俺はそう思うよ」
前方の白い闇を睨みながら、ノレッティンはそういった。

「俺は良い人間なのに、世の中には悪い人間が多すぎる」

世の中の人々が、自分だけは「良い人間だ」と信じてやまないのは、いったい「良い世の中」なんだろうか。

「僕は自分が悪い人間だと思いながら生きてるよ」
私はためしにそういってみた。「……アーティストだからね、そもそも不埒ふらちな生き方をしているんだ」

「アーティストってのは不埒ふらちなのかい?」自身で画家でもあるノレッティンはそういった。
「考え方にもよるだろうけど、少なくとも道徳家じゃぁないだろうね」
「道徳ってのはまぁ厄介だな」ノレッティンはそういって笑った。
少し霧が晴れてきて、目の前にはぼんやりとした木立ちが現れた。白い中央線が、前方からゆっくりとやってきて、のんびりと後方へと飛び去って行く。

◇ ◆ ◇ ◆

しばらくすると遠くに小さな灯りが見えて、そこはポロネーズの町だとノレッティンが告げた。そういう名前の町なのか、それともポーランド人が多く住む町という意味なのか、訊き返してみたがよく判らなかった。

石畳の細い橋を渡りきると、閑散かんさんとした港町に入る。町の中心らしいロータリーには古い車が何台か止まっていたが、人の気配はしなかった。個人商店にさびれたビリヤード場、EFES麦酒の文字が光るバー、灯りはもれているが覗き込んでも誰もいない。

——まるでゴーストタウンみたいだ。イスタンブールの喧騒けんそうが、遠い昔のように思われた。

町外れの坂を上ると軍事施設だった。再び濃くなり始めた霧の中からトルコ軍の兵士が現れて、ここから先へは入れないと告げた。逆光に浮かぶ兵士の影は、幻のようで現実感が伴わない。

町のロータリーまで戻り、教えられた通りに丘を登ると、やがて舗装ほそうされていない道に出た。ノレッティンの運転するフォルクス・ワーゲンは、水溜りを避け、跳ね、落ち、登る。小高い丘の中腹で、ふと赤い光を見た気がした。霧深い夜に赤いひらめ き——目を凝らすとそれは灯台で、ならばそこが海だった。

坂の途中で車を止めて、エンジンを切ると潮騒しおさい が聞こえた。ライトを消して車から降りる。あたりには小雨が舞っている。ザァザァと、寄せては返す波の音……を期待してみたが、どうやらこの海の音は違って聞こえた。寄せて寄せて寄せて寄せて……いつまでもただ押し寄せてくるように思えた。雨が降っていたからかもしれないが、関係ないかもしれなかった。

坂道を登って丘の上まで歩く。海風に吹かれて、霧は丘の上にまでは届かなかった。空は漠として灰色に広く、遠くの海は黒くかすむ。どこから海でどこからが空なのか判らない。空と海との境界は、ぼんやりとぬるく溶けていた。

黒いバターみたいだ。そう思った。そんなもの今までに見たこともないのに……

また、一年が逝く。海風に吹かれて見えなくなってゆく白い霧のように。また、新しい年がやってくる。曖昧あいまいな黒から押し寄せてくる波のように。まるで、黒いバターみたいに、今までに見たこともないような……それとも、もしかしたらそれはどこかにあるのかもしれない。黄金の羊の皮みたいに。海峡を抜けた、広い海の向こうのどこかに。それとも、それはどこか私の知らないところではもうすっかり有名で、毎日飛行機で地球上のあちこちに配送されているのかもしれない。

「なんだ、何にも見えないな」
少し遅れて丘を登ってきたノレッティンがそういった。

眼下に揺れる海はどこまでも黒い。特に、こんな雨の夜の「黒海」は、他のどんな一日よりも黒いだろう。

「This is literary black sea」
(これが本当の黒い海だね)

私たちはそういって笑った。

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【Log de Voyage】 は毎月一日更新です。次回をお楽しみに!

 

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