秋の深まるコネチカット。鮮やかな金色燃ゆる森の奥には、夕方四時を回ると急に増えはじめ、水分を求めて目や鼻や耳の辺りに群がってくる羽虫の類や、音を立てずに飛んできては、腕の辺りから血液を吸い取ってゆく季節外れの蚊、鉄砲玉のように顔面めがけて飛んでくる、丸く白いハチに似た甲虫などが生息している。
突然おでこに弾ける昆虫は鬱陶 しいし、蚊に刺されることだっていたって不愉快なのだけれど、もっと現実的で、人体に密接な危険をはらんでいるのが、近頃大量発生して、ローカルニュースにも取り上げられている「ティック(マダニ)」の存在である。
ティックは……
『嗅覚が発達しており、哺乳類から発せられる二酸化炭素の匂いや体温、体臭、物理的振動などに反応して、草の上などから生物の上に飛び降り吸血行為を行う。その吸血行為によって、体は大きく膨れあがる。(中略)一度口器を差し込んだマダニは、吸血が終わるまで一~二週間程度は体から離れない。そこで無理にマダニを引き抜こうとすると、体液の逆流を招いたり、体内にマダニの頭部が残ってしまう可能性がある。細菌感染の恐れがあるため、マダニを発見したら出来るだけ早く皮膚科を受診したほうが良い。場合によっては、切開してマダニを除去するほかないが、それが一番確実である。』
【出典: Wikipedia】
この厄介な森の吸血鬼はレジデンスの敷地内において、テキサスの小説家マークの机の上を歩いていたり、ボストンのサラのビール瓶のそばに三匹連なって並んでいたり、サンフランシスコのロビンのコーヒーカップの中に浮かんでいたりもする。
滞在も後半に近づいたある日。森での作業を終えてレジデンスへと戻り、シャワーで汗を流していると、ヘソの隣に見慣れぬ黒点。ゴマ粒大の黒点は、引っ掻いてみると微妙に動くが取れやしない。
なんだこれ?一瞬イヤな予感が走る。キッチンでチキンを焼いている、気の好いカリフォルニアのシェフ、ボブにヘソを見せながら訊いてみる。
「ねぇボブ、これってティックだと思う?」「ええ?ティックだって?」「そう、さっきシャワーのときに気がついたんだ」「うぅん、ちいさくてよく見えないな。ちょっと待って、チキンをひっくり返さなくっちゃ」
気は好いが夕食の支度に忙しいシェフは、ろくにヘソなど見やしない。細菌感染症よりも、チキンの焼け具合が気になる様子。
「まぁ心配いらないよ。ティックはそんなに小さくないさ」
チキンをひっくり返しながらシェフがいう。待て待て、なんて薄情な!チキンをひっくり返し終わってからゆっくり相談に乗ってくれてもいいじゃないか。焦げ目に芸術性を感じているのは判るけれど、ヘソの辺りから知らん病いに犯されてゆくかもしれない私のことも気にかけてくれ。手遅れになったらどうするんだ。チキンは皮が少々焦げていても美味しいが、ちまたには恐ろしく小さなティックもいて、そして小さなティックほど毒性が強いのだと、管理人のアリソンさんもいっていなかったか?
共用ルームに置いてある「ティック実物大比較カード」を取ってきて、ボブに抗議しようと母屋へ戻ると、森での作業を終えて戻ってきたルイーズが、自転車から荷物を下ろしている。
「あら、ジュン、今日の仕事は終わり?いい匂いね、ディナーはチキン?」「ハイ、ルイーズ、ボブが焼き加減をみているよ。でも彼は気を使い過ぎだと思うね。チキンの皮は少しくらい焦げてた方が美味しいと思わない?」「わたしチキンの皮は食べないわ」「ところでさ、ルイーズ、これってティックだと思う?」
私はヘソを見せながら訊ねてみる。レジデンスのリピーターであり、ティックに関して私たちよりも知識があるであろうルイーズは、眼鏡を二枚重ねて……「ふむ」
どうやら判断はつかない様子。確かにこの黒点はあまりにも小さい。自分自身、目を凝らして観察してみようにも、なにぶんヘソは目から遠い。
そうこうしているうちにチキンの匂いに誘われて、滞在中のアーティストたちがぞろぞろと母屋へと集まり始めた。「ねぇマーク、これってティックじゃない?」アメリカ人たちにヘソを見せながら、私は孤独な主張を続ける。「ボブは新しいホクロだっていうんだ、ヒドイと思わない?」
「んん~チキンの匂いがたまらないね」「ねぇ、あなた『チキン・ジョージ』っていう日本のマンガ知ってる?」「それにしてもこのヘソは『ひらがな』みたいだね」「リンゴ食べる?」「へぇ、彼女そんなこともしてるの」「チキンはちょっと焦げたくらいが美味しいよね」「なんだって?今なんていったんだい?」「『の』だっけ?『9』が倒れたようなやつ」「トラウマなのよね~あのマンガ」「いやいや、『の』というよりも『そ』じゃない?」「つまりたくさんの帽子をかぶってるってわけね」「『そ』だって?あんた『そ』のカタチ知ってる?」「知ってるさ、『そおです、そおです』の『そ』だろ?」
……まったくもって話にならん。
自分の身は自分で守るしかない。だいたいこの黒点は小さすぎる。なんというかこう「ピンチ・アウト」の要領でもって、ギュゥっと拡大できたりすれば……と考えて思いが至った。カメラだ!無責任なアメリカ人たちをよそに、私はひとり自室へと走る。
さて、そういった訳で。「メガピクセル」というやつはやっぱり凄いね。接写モードでヘソの隣りの小さな粒は、噂の吸血寄生虫、八本足のティックだと判明。イエス!ティック・イン!めでたく「最初の犠牲者」であります。
さて。悪ノリが大好きなアメリカン・アーティストたち。レジデンスに備え付けられていた、ティック・リムーヴァー・キットで、まずは私のヘソの横からティックを引っこ抜き、ルイーズが持っていた(新品の)テキーラ(Tequila)の小瓶にこれを放り込む。
サンフランシスコのロビンがボトルのラベルをデザインして、めでたくティック(Tick)の酒漬け、「ティッキーラ(Tick-Quila)」の完成なのであります。
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Illustration by Kaori Mitsushima |
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