「トォゥボロォゥク、パジャォゥスタ!」
午後九時の斜陽、一日の後片付けに騒がしいモスクワの市場。「パジャウスタ」というのは英語で言うところの「プリーズ」。
展覧会の準備中、滞在しているホテルへの帰り道。メトロの駅前のキオスクで、棚に並ぶボトル入りのツボルク麦酒を頼もうとするが、店のおばさんはこれを解さない。カザフスタンから出稼ぎにやって来た田舎者でも見るように、私の顔をしげしげと眺めている。
「ツボルク、パジャウスタ(カタカナ風)」から始まって、チュゥボーゥグ?(仏語風)、トゥボォルグ?(英語風)、ツボォーゥルック?(私なりのロシア語)、結局あきらめて指差した「TUBORG BEER」。
「ああ!トォゥボロォゥク!」
店のおばさんは納得して笑う。ダー!ダー!そう言ったじゃん?
半端な発音じゃぁまるで駄目。ロシア語。何もかもが真ん中あたりで腹式呼吸。気合いを入れて発音する。
「トォゥボロォゥク、パジャォゥスタ!ハラショー!ダ!ハラショー!スパスィーバ!」
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◇ ◆ ◇ ◆
人のよさそうなイランのおっさんなんかに、六時間もある飛行機の乗換えの待ち時間に「一緒に飯を食おう」なんて誘われた時に私は弱い。
できれば眠って過ごしたい、だから他の人にお願いしたい、だいたいお腹なんて空いていないし。そんな気持ちで一杯だけれど、「ハロー」なんて差し出された手を無視できるほど、私は人間ができちゃいない。
カタール、ドーハ。外気温は夜の始まりで三九度。携帯電話もコンピュータも電池切れ。バッテリーをチャージしようと充電器を取り出したところで、ソケットのタイプが異なるということに気がついた。
パリから澳門(マカオ)へ向かうトランジット。呼吸を少なくして半眠状態に入り、繭(コクーン)の如きイメージでもって、穏やかに安らかに、この退屈で厄介な六時間をやり過ごそうと、免税店なんかには脇目もふらず、まだ誰も集まっていない出国ゲートに颯爽と一番乗りをしたのがそもそもの間違い。特に、二番手が人のよさそうな髭のおっさんだったりする場合には。
「香港?」と訊かれる。
「香港経由で澳門です」と答える。
——沈黙。
仕方ないので「乗換えが長いですね」と私。申し訳なさそうなペルシア語が返ってくる。うぅん……そんなに申し訳なさそうにしないでくれよ、私が悪いみたいじゃないか。離れて座れば好いものを、寄って来たのはおじさんの方でしょ?……って、いや、そんなことを言うと、まるで性格の悪い私が、一方的に迷惑がっているみたいじゃないか。そんなことはない、決してそんなことはないのだよ。最初に色々言ったけれどね、あれは全部ポーズなんだ。旅は道連れ、世は情け、寂しいもんね、ひとりで六時間……って、それにしても。なんで私が申し訳ないような気持ちになるのだろう。英語がろくに喋れないうちはそのことで落胆し、それが少し喋れるようになってからは、喋れない人を見て落胆する。一体、私の人生は落胆してばかりなのだろうかね。
「香港へは仕事で?」
五〇代も半ば過ぎ。ひとりで、英語も中国語も喋れないまま、香港から中国本土に入り、三〇日間も滞在しようとしているイランのおっさん、名前はアリ。船舶関係の仕事をしていて、テヘラン市内には息子が五人、知っている日本語は「もしもし」。一緒に食事をして、四時間をかけて訊き出せたことはもうすっかりそれくらいで、「連絡先をくれ」というから、「何か書く紙はあるか?」と尋ねると、鞄から取り出したイランのパンを私にくれた。
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◇ ◆ ◇ ◆
「心祝」
キムなんとかさんは、そう大きく書かかれた色紙を私にくれた。
ソウル、仁寺洞。多国籍アーティストたちのグループ展のオープニング。
「カムサハムニダ~」
そう言って、私は色紙を受付の机の花飾りの傍に立てかけた。キムなんとかさんはニコニコしている。
ニコニコニコニコニコニコニコニコ、私の前に突っ立ったまま……はて、まだ何か?
「しん?しゅく?」
仕方がないので、色紙に書かれた文字を音読みしてみる。韓国語の単語の多くは、音読みしてみると案外日本語と近く、それで通じれば、ひとまずこの奇妙な「間」が埋まるかもしれない。
私のその音読みの呟きを聞いて、キムなんとかさんは花飾りの傍に立てかけた色紙を手に取り、「道生、天地生」という漢字の後にハングルを続け、その後にまた「天地生」としたためた。「天地生」が一回多いような気もしたが、よく知らないので訊くのは止した。
続け様に彼は、「森羅萬象」と書き、また何事かをハングルで綴った。
「しんらばんしょう、ア~ウ~ア~」
「ごめんなさい、読めません」を表現しながらおどけてみせると、キムなんとかさんは、細い目をまた細くして微笑んだ。
「Thank you」
今度は英語で言って微笑んで、花飾りの傍に色紙を戻す。キムなんとかさんはニコニコしている。
……作品とか観に行かないの?
そもそも彼は誰なんだ?フラリとギャラリーに入ってきて、展覧会場には見向きもせずに、いきなり色紙とペンを取り出した。ニコニコ顔のハングク・アジュッシ、キムなんとかさんは微笑んでいる。
仕方がないので私も微笑む。すると、キムなんとかさんは三度花飾りの傍から色紙を取り上げて、今度は花のイラストを描き添えた。描き方から推察するに、絵心のある人には違いない。今はただ、ニコニコしているだけだけれど……
ふぅむ、困ったね。
私を見つめてニコニコしている不思議なおっさん。仕方がないので、私も見つめ返してニコニコしてみる。
……ニコニコニコニコ……
……ニコニコニコニコ……
……ニコニコニコニコ……
二人の視線が絡み合い、やがてあたりに親密な空気が流れ始めた。
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◇ ◆ ◇ ◆
「バルチカ、パジョゥスタ!」
(パジャウスタの部分を改良した私なりのロシア語)
「バルチカ(BALTIKA)」というのはロシアの麦酒で、0から9まで番号がついている。0番がノンアルコール、3番がクラシック、4番がオリジナルで8番が小麦の白麦酒。前回の失敗を考慮して、私は最初からまっすぐと、ペール・エール(大麦の麦酒)「バルチカ#2」を指差した。
「バルチカ、パジョゥスタ!」
鼻息荒く、棚の麦酒を指差す私に、店のおばさんはやれやれといった調子で隣のおばさんと見合わせて笑い、
「ブゥァルティクワァ!……ティクワァ……ティクワァ……ティクワァ……ティクワァ……」
エコーのかかるロシアの気合い。周囲の空気を振動させて、私の発音を矯正する。
午後九時のマーケット。空はやっぱり蒼く明るい。
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Illustrations by Kaori Mitsushima |
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