とある展覧会の準備中、車の助手席に乗り込んだトルコからの来賓ムスタファ氏(仮名)が、「調子はどうだい?」、運転席のアレックスくん(仮名)に訊ねた。
「今日は息つく暇もないね」と展覧会の責任者でもある、ドイツ人のアレックスくん。ムスタファ氏はニヤニヤしながら、「トルコには、ケツの穴に傘をさしたら傘を開くことができない、ということわざがあるぜ、知ってた?」と。
ふぅむ。こいつはよくある「紳士の会話」。本当にそういうことわざがあるのかどうかは知らないが、言ってみれば「ご挨拶」、世の中にはこういう「ジェントルマン」が時々いるね。
さて、さすがは長年を英国で過ごしたアレックスくん、「イタリアでは、ひとつのことばかり考えているとケツの穴に傘をさすこともできない、ともいうね」とすぐさま返す。こちらも本当かどうかは知らないが、この際「リズム」と「もっともらしさ」が重要である。普段はその種の会話をするような彼ではないが、一筋縄では行かない各国のアート関係者を取り仕切るには、ときに「ケツの穴に傘をさして」でも、柔軟性の力量を示さなければならないのかもしれない。
来るぞ、と思った瞬間、「日本では?」と助手席からニヤケ顔のムスタファ氏がふり返った。ホラな。言ってみればこいつはマウンティング。上手く返さなければ調子に乗られる。さて。私は、極東アジア人には案外許されている、せいぜい無邪気で白々しい顔を作っておいて、「日本ではケツの穴には傘をささないんだ」と言い、それから「信じられないかも知れないけれどね」と付け加えておいた。
◇ ◆ ◇ ◆
海外に生活していると、ときどき訊ねられる質問に、「日本はどう?(How about Japan?)」というのがあります。質問が「ケツの穴に傘をさすかどうか」であれば、答えはその場の雰囲気次第でも好いのですが、厄介なのはもっと素朴な場合でありまして……
「私たちの国ではこうなんだけれど、日本ではどう?」
……「どう?」ってまぁしかし、そんなに乱暴に訊かれても困るよ……
「I am Japanese, but I am not Japan」
(僕は日本人だけど、日本国じゃないよ)
せっかく盛り上がっている友好的な席で、いきなり政治的立ち位置を表明する必要さえ発生しかねないこの種類の質問を、平和的に着地させるには「国家」と「個人」を別けて考えてもらう必要がある。私の意見は(日本人の発想ではあるけれど)あくまで私個人のものであって、日本国民の総意などではない。文化を共有していないということは、「意味するところ」を共有していない。面倒だけれどもひとつ戻って、前提となる定義の確認作業が必要なのであります。
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チェコ共和国のプラハにて、あるドイツ人アーティストのプレゼンテーションに参加しました。
彼女のトークは非常にフランクなスタイルなのですが、聴講者の数名に
「Are you a feminist?」
(あなたフェミニスト?)
と、問いかけることから始まる。
さて、これは困った質問だね。どうにも答えることが難しい。何故ならばこの時点では質問の意図が明確ではなく、どんなレヴェルでのフェミニスム議論なのか、前提の定義がなされていない。「Yes」と答えれば、その何たるかを証明しなければならないだろうし、「No」と答えてしまえば即刻フェミニスト全員を敵に回しかねない。
よっぽど自信がなければ返答なんてできない。よっぽど自信があったとしても、それをここで表明する意味は?「Yes/No」を突きつけてくる質問には、——対立か?——従属か?——本能的な 警戒心が働く。
こんな何でもない土曜日の午後に、そんな厄介な問題を抱え込むのはまっぴらだ、観客はさり気なく目を反らす。そうして「Yes」も「No」も封印される。即座に回答できない観客は、いきなり無学の負い目を感じ、彼女はその場を掌握する。さすがは売り出し中のアーティスト、実際手際は見事なものです。
キリスト教の父権主義を「エクソシスム」という儀式に象徴化させ、フェミニスムの見地からパフォーマンス作品へと昇華している、彼女のアーティストとしての取り組みはとても興味深いものだったのですが、さて、ともあれ彼女は「恐怖」を使うね。回答不能の沈黙を引き出すことによって、自分に優位な状況を作り出す。これらの秘術を、私は密かに「ブラック・マジック」と呼んでおります。
◇ ◆ ◇ ◆
もう随分と昔の話になるけれど、カトリック神父でもある、ある高名な彫刻家から「あなたはアーティストですか?」と問われたことがある。
さて困ったね。年長の、しかも世界的に知られた彫刻家に?初対面で?私なぞが?「はい、どうも、アーティストです」と?——ふむ。
神父は静かにこちらを見ている。私は返答に困ってしまい
「そう呼ばれる仕事をしています」
——まったくもってなっちゃいない。
ノック、ノック、ノック、神父は机をノックして
「そんなもの(職業)は存在しませんよ」
オーマイブッダ!やっぱり「とんち」の問題でしたか!
◇ ◆ ◇ ◆
「あなた神さまを信じる?」
イスタンブールのデッサンスクールで、女子学生にそう訊ねられました。
フランクな会話であったし、私は適当に「 Not really(あんまり)」なんて答えた。
——即答の過ち。己の浅はかさを痛感するのはこんな時です。
私はどうもぼんやりと、新春日の出の大海原に、にこやかな老翁の一団が、「福」だの「寿」だのの宝船、めでたい小槌でも振りながら、稲穂の束に鯛が跳ね……の図を思い描いていた訳でありますが、まったくもって思慮が浅い。少し考えればすぐに判る、彼女が意味した「神」とは、「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」全知全能唯一絶対、すべてを超越する「アッラー」なのであります。
七面鳥のいないクリスマスにチキンを食べて、年末には鐘でも突いて酒でも飲んで、翌日には神社で「無病息災!家内安全!商売繁盛!」柏手を打って小銭を放って、一方的に無責任な願いを唱える、軽佻浮薄 な私なんかとはまるで違う。加えて言うならばこんな時こそ、創作のアイデアにつながるやも知れぬ、異文化の「発想の自然」を探るチャンスではありませんか。
「あなた神を信じる?」
前提を共有しない私たちは、同じ言葉からでもまるで異なるものを想像する。そして「神」というものが何であるのかを知らない限り、この質問への回答は難しい。「Yes」であれば即刻「彼/彼女の神」への同調を意味するし、根拠のない「No」は成立しない。「No」には「No」の理由が要る。あるいは、前提を確認するための議論が必要となるのであります。
「あなたはアーティストですか?」
「いいえ」
「じゃぁ何者ですか?」
前提が不明瞭である以上、「Yes/No」の質問は——アートとはなんぞや?——瞬時に沈黙のフィールドを作りだす、効果的な「魔法」ともなりえるようです。
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Illustration by Kaori Mitsushima |
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