「水曜日に髪を切るのは縁起が悪い」
タイの言い伝えではそう云われています。爪も切ってはいけないらしい。
——何故?
地元の人に訊いてみる。
「Because, on Wednesday evening, the Monkey God is eating the moon」
(だって水曜日の夜にはモンキー・ゴッドが月を食べてるから)
……そうだよね。モンキー・ゴッドが月を食べてるなら仕方がないよね。
……
……
「モンキー・ゴッド」こと、ハヌマーンというのは、ヒンドゥー教の叙事詩、ラーマーヤナの中心的な人物の一人なのだそうですが……さて、世の中には様々な伝統・風習というものがあります。迷信、俗信、言い伝え、ジンクス、縁起に験担ぎ、そういえばタブーというのもあるね。
科学的根拠なんてない、とは思ってみても、まぁなんとなく気にかかる。「そろそろ爪を切らなきゃなぁ ……」なんてのが夜だったりすると思い出し、枕の方角なんかがちょっと気になる。お茶っ葉の回転に眼を凝らし、ご飯にお箸は突き立てない……
遠い蜜月の記憶のうちに、囁き込まれたこれらの文化は、ゆっくりと、のんびりと、発想の底の方に横たわっている。それらは「そうだ」と刷り込まれた意識の中では、饒舌に機能もする訳だけれど、価値観を隔てた別の意識の中では、何の声も喚起しない。つまり、私は水曜日に髪を切ることに抵抗がない。
◇ ◆ ◇ ◆
日本で朝に見かける「蜘蛛 」は—— 仇 でも殺すな——待人近しの 吉兆とされます。
ところがフランスでは反対に——Araignée du matin, chagrin——「 朝蜘蛛」は、「悲しみ」の暗示であると云います。
一方で——親でも殺せ——日本では 災いを呼ぶ凶兆とされる「夜蜘蛛 」は、フランスでは——Araignée du soir, espoir——「 希望」の兆しとなるのだそうです。
フランス語のこの言い回しは、「Araignée du matin(朝の蜘蛛)」と「chagrin(悲しみ)」、「Araignée du soir(夜の蜘蛛)」と「espoir(希望)」の、それぞれの語尾である「-in」と「-oir」をかけた言葉遊びである、とも云われていますが、だったら「Araignée(蜘蛛)」じゃなくてもよい気もします。
ともあれ私にとって興味深いのは、ある土地では「好し」とされることが、別の土地では「悪し」とされることがあるということ。
欧州では吸血鬼なんかと一緒に飛んでいる「蝙蝠」も、中国語では「变福(福に変わる)」と発音が似ている(蝙蝠 Biānfú / 变福 Biàn fú)ということから、幸運の徴としてお寺の壁なんかに描き込まれる。
一方では何かを見て呪わしく思い、もう一方では同じものを見ても祝 わしく思う。自然界にある「同じもの」を目撃しても、文化——その土地での昔からの自然との向きあい方——によって、意味付け、 解釈が変わってくる。
そうして認識の方法が文化によって異なるのだとすれば、何をもって「アート」とするのかだって、それぞれに異なってくるのではないか。
◇ ◆ ◇ ◆
さて。三ヶ月間ほど滞在していたタイのチェンマイにおいて、私が興味を持ったのは、この「水曜日」の文化でありました。
タイでは……
一、生まれた曜日によって、自分の守護神となる仏陀像がある。
二、生まれた曜日によって、自分のラッキーカラーというものもある。
三、ところが水曜日だけは、「朝」と「夜」のふたつに別けられ、像も色もそれぞれに異なる。
四、「水曜日」の「夜」に生まれた人は、とても特別な存在である。
五、現在では観光化してしまっているが、首長族(カヤン)の伝統においても、首を長くしたのは「水曜日」の「夜」に生まれた女性だけであった、と伝えられる。
六、そういった訳で、水曜日は特別な一日である。
七、だから水曜日には髪も爪も切ってはいけない。
八、何故木曜日じゃないかって?そんなの知らない。特別は特別、そういうものだと思ってたわ。っていうかそれって大切?
九、ワタシ毎週水曜日にドイ・サケットのマーケットでお花売ってるよ、時間があったら遊びに来てね。
十、何故水曜日は特別かだって?とんでもない、あんた運がいい、特別な日は今日さ。ラッキーブッダを見に行かないかい?ここだけの話だがね、今日は皇室のお祝いで、政府からガソリン代が援助されるんだ。どのトゥクトゥクも、って訳じゃない。俺みたいな模範ドライバーだけさ。ホラ、これが免許だ。ここのところに書いてあるだろ?さぁ特別料金だ。ラッキーブッダまで百バーツでどう?
……そういった訳で。
回答は人によってまちまちですが、しかしながらチェンマイの美容室は、やっぱり水曜日がお休みなのであります。
結局、もっと知りたいならばお寺に行け、ということで、私はお坊さんに訊いてみる。
「どうして水曜日に髪の毛を切ってはいけないのですか?」
「ハイ、水曜の朝、仏陀は両方の手で托鉢の鉢を抱えて立っていますね。水曜の夜、仏陀は象から水を、猿から蜂の巣を受け取っています。一週間の中で水曜日だけが、二つのイメージを持っている特別な日なのですね」
いや、ですからそれはもう存じておりまして……私の疑問は「何故、水曜日なのか?」ということでありまして……と言いかけて、これはなんだか違うんじゃないか、という気分になった。
何故?と問うて得られる答えには限りがある。「もともとは古代インド、バラモン教の聖典であるヴェーダの時代に……」なんて由来が知れたところで詮もない。
私は「そういうもの」が、日常から失われつつある世界から来た。ならば何故、今目の前の人々の日常の風景を、わざわざ自分の尺度に当て嵌めて、即席の理解をねだるようなことをするのか。短絡的・消費的な発想でもって、無垢の闇に好奇の光りを投じてみても、そこには何も見えてこない。
「Qui recherche la lune, ne voit pas les étoiles」
(月を探す者は、星々を見ない)
フランスにはそういう諺がありました。
何かに固執すると他のものが見えなくなる。探して見つかる「月」なんて、結局自身が作り上げた幻かもしれない。知らないことは知らなくていい。判らないことは判らなくていい。「水曜日は特別である」そんな文化がこの辺りの土地にはあって、そんな風に生活する人々もいる。それを知るだけで十分じゃないか。
日本の月にはウサギがいる。「ウサギが月で餅をついてる」理由なんて知らないけれど「餅をつくウサギ」なんてなかなか想像的です。そして、想像力によって文化が伝えられてゆくことは素晴らしい。大切なのは奇異なイメージそのものではなく、「イメージが共有されている」という現実の方ではないか。私はそういう風に考えたのであります。
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Illustration by Kaori Mitsushima |
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広々としたお寺の境内に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。南国のねっとりとした夜の気配。周囲には重層な虫の声。妖艶な熱帯植物の漆黒の向こうには、屋台のあかりが灯り始めた。ふと空を見上げると、猿神様の微笑みのような三日月が浮かんでいる。
私はなんだか清々しい気分になって、自身のガーディアンブッダである、火曜日の涅槃像に参ってから帰ろうという気分になった。
弱々しい蛍光灯が瞬く社の奥には、仏陀の像が祭られている。そう、守護像は日曜日から土曜日までと、水曜の「朝・夜」二体の合計八体……と思いきや、そこには九体の仏像が据 えられている。ちょっと待て!九体目があるなんて聞いてないよ?ええ?なんで、なんで、なんで?
※ タイ、ラオス、ミャンマーなどで多く見られる曜日の守護像は八体で、稀にある九体目は「毎日」の守護像なのだということです。
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