Log de Voyage

 

 

——信じてるかい?
——信じてるよ。

——本当かい?
——本当だよ。

——約束できるかい?
——約束できるさ。それを証明する為になら、私はこの大きな石だって動かしてみせよう。この大きな石をいくつもいくつも積み上げて、貴方に ささげる会堂を建てよう。そうして、貴方をたたえる歌を歌おう。子々孫々永劫に、貴方をたたえる歌を歌おう。貴方への、永遠の愛を証明するために……

L'amour n'est pas la réponse. L'amour est la question. Et la réponse est...... Oui.

◇ ◆ ◇ ◆

パリの友人、弁護士のH君が、彼はたまたま何かに嫌気がさしている時期だったのかも知れない訳ですが、少なくともそうは見えなかったある夜に、「医者は嘘をついてはいけない、弁護士はいいがね」なんてことをポロリと言った。ははぁ!面白そうです!私はがぜん興味を持った。

「We need at least one」
(我々には少なくとも「ひとつ」が必要なんだ)

科学は嫌いなのだと言います。

「いかに自然の法則が正しかろうとも、分解して提示することとはまるで違う」

違う?何が?

「科学の証明は美しくない。とっ散らかっていて、なんでもすぐ解剖して……冷たい。人間はそんなに機械的なものじゃない」

「善」と「美」には共通点があると言う。それはどちらも詩的で想像的で、だから美しい、と。ふぅむ「真善美」というやつですな。――Es ist gut, ならばH君は「道徳」に、私は「芸術」に仕えているということになる。

「『あなたは愛を感じることができるが、愛を理解することはできない』……神の言葉だよ」
敬虔なクリスチャンだ、と私は思った。信ずることが愛か、それを証明することが愛か……

「えっと、じゃぁ……例えば相対性理論とか?数学とかのこう、定理?あんなのは美しい、なんて言われるんじゃない?まぁよく知らないけど、つまり「真理の証明」にも、美しさの要求なんてのがあるんじゃない?」
訊いてみる。

彼は少し考えて
「宇宙にはまだまだ詩の余地があるね……」

ふむ。質問の方向を間違ったのかもしらんね。そもそも議論をするのが目的ではない。私は正しくなくったって構わない。異なる考え方を見聞きすることに、もっと大きな興味があるのです。

夜が次第に更けてゆく。暖炉だんろの炎が小さくなり、外から流れ込んで来る空気が冷たい。今夜は雪になるのかもしれない。

「それにしたって。真理めいたものを発見したって得意になって、うっとりしてるのが一体なんだい?結局証明なんて出来ないじゃないか。右手と右手で握手をすることは出来ないのさ。「あるはずだ」と仮定に仮定を重ねて行って、僕らの生きてる宇宙の「次元」は、十一、二にまで増えたそうじゃないか。ご立派だよ。十三辺りで裏切られなければ良いがね」

温厚な印象であるH君も、よっぽど強いものを秘めているのかもしれない。それとも、やっぱり誰か特定の科学者とでもケンカした?
私は空になりかけたグラスをテーブルに置いて、壁にかかっている抽象絵画に目を向ける。

「アブストラクト・ペインティングってのはどう?」
こちらを見る眼鏡の奥の瞳は丸い。

「以前さ、とある美術館に通える機会があったんだ。結構大きな美術館で、フランス絵画のコレクションも充実してたよ。十九世紀のパリの風景なんか見れると楽しいし……しかしあれだね、その頃の絵画ってのは画面にがっちりピントが合ってて、超リアルなんだね。それが、二〇世紀に入ると突然山がピンクになって、木があちこちに突き刺さる。まぁ、美術史の勉強はしたけどさ。改めて観ると面白いよ。おお!一体何が起きた?って。画家はあれ?世紀末に、みんなまとめて目が悪くなったの?って……」

H君は少し笑うと、二杯目のコニャックをグラスに注いだ。

◇ ◆ ◇ ◆

一八七〇年代のフランス、アカデミーの支配が強かった時代に、反抗的な態度表明として印象派(Impressionism)という絵画表現が現れた。アカデミーが教える技法は、リアリスティックに見えるが「らしい」だけであり、決して世界の本当の姿ではない。古典派の技法を繰り返しながらサロンでの評判に左右されるばかりで、世界のリアリティとは無縁なものとなっている。心の躍動やくどうから離れた技法の研磨けんまは、一体アートと呼ぶべきものなのだろうか。むき出しの世界の様相ようそうは、アカデミーのアトリエで「教えてもらえる」ものなのだろうか。印象派は疑問を提示する。

新しい画家たちは世界を「思えたよう」に描いた。光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するか。画面はいわゆる「写実性」よりも、現実に感じられた「印象への率直さ」に従うこととなる。「主観の尊重」。「そう」見えたんだからしょうがない。画面には自由に筆跡が残り、こうして画家たちは自分の思ったように、感じたように「絵」を描いて好いこととなった。

それから一九一〇年代にかけて、「世界」が「自分にはどう見えるか」を、「表現」する芸術家たちが現れてくる。表現主義(Espressionism)。見えたように、思えたように……私にはこう見える。「そう」見えるというのであれば言うことはない……教会は輪郭りんかくを残しながら次第に透け、人々は地面から生えてくる。議論は画面の構成(コンポジション)となり、抽象絵画という概念が生まれた。

ニーチェは一八八二年に『悦ばしき知識』という本の中で、「神は死んだ」と言った。確かにその頃、絵画の世界でも何かが変わった。何が変わったのだろうか。画面の中で失われたものがあるとすれば、それは「神性」のようものだろうか、それとも「権威」のようなものなのだろうか。あるいはそれらは同じもの?

◇ ◆ ◇ ◆

「これは「解剖されて冷たくなった」にあたる?」

飼い猫のレオンが音もなく階段を下りてきて、静かに暖炉の方へと歩いて行く。階上はもっと寒いのかもしれない。H君は新しい薪をくべる。

「歴史ってのはいつも興味深いね。抽象絵画は自由に想像力を広げられる媒体として好きだよ」

だとしたら、科学によって解剖された世界の断片にも、観る者によって「美」が宿るのでは?それとも「真」というやつは、「美」を帯びてはいけないもの?

古代中国の哲学者は「信言不美、美言不信(老子 第八十一章)」と言った。すなわち、「信頼に足る言葉は美しいものではなく、美しい言葉は信頼に足るものではない」。

私には「信」と「真」の違いさえ判らないけれど、少なくとも「信」に対して「美」は、悪者であるようにさえ思えてくる。曰く、「美」なんぞで「ほわぁん」としてちゃぁイカン。そいつは大体「嘘」なんだから。
「善」というのも、善意から「そう」したとしても、勘違いを産むかもしれない、という点において、やっぱり悪者一派に数えられそうである。そうするとむしろ、「信」ならざるところに、H君の言う「詩的で想像的」な要素があって、つまり「美」か「善」に従う「詩的で想像的な要素」こそが、「嘘」ということになるのかもしれない。
ニーチェは、「仏陀的な意思の否定にあこがれる危険にさらされていたギリシャ人は、芸術の力で生への欲求を取り戻した(悲劇の誕生)」とも言った。「真」にのみ従うならば、人間は、坂道を転がる石と区別がつかなくなるかもしれない。だったら「美」か「善」に従う「嘘」には、生命を活発にする効能がある、とも考えられる。

「まぁ美しいと思えば大抵のものは美しいさ。イワシの頭だって美しい。食用バターだってアートになる。ハム・アート、ポーク・アート、チキン・アート、トマト・アート、バナナ・アート、アップル・アート、ターキー・アート、ケーキ・アート、クッキー・アート!」

H君は一言「イワシの頭は美しくない……」と言った。

◇ ◆ ◇ ◆

「『法』はどうなの?ジャッジとか。判決ってのは冷たくない?」

「法的正当性を証明をする時にはね、冷たいかもしれない。でも判決が根拠としているのは「法」であって、「法」自体には、人間的で詩的な美しさがあるよ。それが完全に自然の法則と同じかというとそれは別の議論だけど、我々には最低でも「ひとつ」が必要なんだ」

……悪法も法……

その「ひとつ」というのが、「現行」であり、「法」には「未だ完璧ではない」という大前提がある。何を「善し」とするのかは時代によって変わる。だからそこには議論の余地があり、改善の余地がある。「善くしてゆこう」という「意志」こそが、明日への活力であり、克服こくふくへの希望なのだと言う。ふむ、世の中はとてつもなく悪くなるかもしれない、という想像力を引き受けることによって、とてつもなく好くなるかもしれない、という想像力を可能にするね。

「生きる力を失うことが一番ダメなんだ。例え「本当」のことであったとしても、人間の生きる力を失わせるのならば、そんなものに従う必要はない。人間がディプレストしないように。人生に失望して、気力を失うことこそが、最も避けるべきことなんだ。社会の構造が無意識に個人を締めつけていることはよくある。そういう人々を救済するのが法だよ」

おおっと!そいつはなかなかの美言であります。

……嘘、ついてる?

 

Illustration for Log de Voyage

Illustration by Kaori Mitsushima

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