Log de Voyageメモリー・オブ・レダ(後編)

 

 

夏の日差しが光の筋となり、水面から海中へと刺し込んでくる。海底に切り立った激しい岩肌をチラチラと舐める光の影は、網の目のように連鎖したまま、焦点を合わせられることを永遠に拒んでいる。岩に弾けた波が水面下で白く煙り、周囲に舞ってそれから消える。岩影は鉄紺色てっこんいろに沈み、その向こうは得体が知れない。

遥か足下、潮に撫でられた砂紋さもんが不規則に整然と、その上には身体の影が落っこちている。不意に、目の前を魚の一群が過ぎる。小刻みにふるえる光の帯の、その一粒一粒が「いのち」なのだと考えてみると、あらためて海は生命の濃度が高い。岩に張り付いている名前を知らない海藻、ゴツゴツとした殻をまとって歩く奇妙な生き物、何処からが鉱物で何処からが植物なのか、泳ぐもの、漂うもの、他の生命を貼付けたまま、もっとゆっくりと生きるもの……あるいは、それらに大差はないのかもしれない。

二〇一四年、ギリシャ。エーゲ海のとある島。ドイツ人アーティストのA君は、ここに土地を購入して、アーティストを招待できるレジデンス・スタジオを建てようとしている。
オリーブ畑の斜面にある作業現場から数キロ離れた海岸沿いの廃屋、手伝いに呼ばれた私は、夏の仮住まいをしております。

先日キッチンに現れた黒蛇は、さんざん子猫にもて遊ばれた挙げ句、たまらず中庭の茂みへと逃げ込んだ。これで蛇を撃退げきたいするには昆虫が嫌う匂いを発する木片を五つばかり炊くよりも、子猫と仲良く暮らしておいた方が効果的であるということが証明された。
一方で、今や蛇のアジトと目される中庭の茂みは、次なる侵入者を生み出す前に一刻も早く殲滅せんめつすべしとし、翌日ニコの草刈り機で片付けられた。草を刈っても蛇は現れず、してみればキッチンへの侵入者であるとはいえ、子猫の犠牲者でもある訳だから、これは双方の利害が一致した結果であるとも言える。
すっかり見晴らしの好くなった中庭には、蜘蛛くもの子が散りキリギリスが跳ぶ。ニコはオレンジを抱えて帰って行く。草を刈ったら現れた石窯にレダは珍しそうによじ登り、煙突えんとつに首を突っ込んでいる。実際、この頃私たちはとても好い友達なのでありました。

英国からA君の友人C嬢が到着すると、事態は少々変わり始めた。
明け方港に入った客船から、大騒ぎで到着したC嬢はレダを見ると、「Kitten!(子猫ちゃん!)」嬉しそうに声を上げ、荷物を放り出して駆け寄った。子猫を見て本当に駆け出すお嬢さんと出会ったのは私も初めてなのでありますが、おそらくレダにしたって変わりはない。押さえつけられて撫でつけられるか、引っ張り上げられて尻尾でぶら下げられるか、C嬢のお転婆てんばな勢いに気圧されて「キトゥン」は食卓から塀の上へと避難した。

「Oh, she doesn’t like me……(ああ、私のこと嫌いなのかしら……)」
突然追われれば、大抵の動物は逃げるようにも思われるのですが、ともあれC嬢はすっかり失望したのであります。

◇ ◆ ◇ ◆

「この浜辺の家はね、友達のお父さんが建てたんだ」
ワインを引っこ抜きながらA君が言う。

「今は廃屋になっちゃってるけど……」
水道も電気も通っていないサマーハウス。一九八〇年代に建てられたというこの建物は、二〇一〇年のギリシャ経済危機以降、「違法建築物」となっている。

八〇年代、土地の所有者は敷地内に、自由に建物を建てることができたのだそうだ。しかし国の経済が危機に陥って、法律が改正された後に、建築物には「登録」の必要が義務づけられた。「課税」は家を建てることが出来る経済力から……しかし、これにより多くの「別荘」が「登録料」と見比べられ、無登録の「違法建築」として見捨てられた。

二〇十四年にはさらなる法案が提出され、ギリシャ国土の海岸沿いから二百メートル以内の土地は、政府が優先的に安価で買い上げる権利を有する、ということが検討けんとうされている。つまり、国は海岸線を外国資本の前に並べたい。

人間の「思惑」は、いつも一周回って「別の地点」に到着する……

雲が流れ、風が強く吹き始めた。

突と、暗闇を見つめていたレダが低く唸り出した。石釜に並ぶ、ガーリックとチーズのフォイル焼きが待ち遠しい様子とは違う。

「What happened, Leda? (どうしたの、レダ?)」
海沿いのテラスの柵がキイキイと鳴る。パチン、と石釜の中で炎が弾ける。
しばらくすると、ランタンの向こうの暗がりから、すっと別の猫が姿を見せた。
「ふぅぅぅぅ……」
レダは威嚇いかくの声を強くする。

灰色の毛並みの猫は知らんぷりで、尻尾を低く弓なりに張ったまま、一歩、一歩、確かめるように肩で歩く。二匹は目を合わせない。辺りで風がボウボウと鳴る。テラスの柵もキイキイと鳴る。私は思わずクシャミをした。「グレイ」はピクリと立ち止まり、またそろそろと歩き出す。

犬は食事を与えてくれるものをあるじだと思うけれど、猫は食事を与えてくれるものをしもべだと思う。レダは今やひとつの王国の主で、グレイはその侵略者でありました。
C嬢がトマトスライスを中庭の角に置くと、グレイは静かに歩み寄り、しばらく匂いを嗅いで興味を失い、さらに食卓へとにじり寄った。レダはいよいよ緊張の空気を震わせる。

さて。こんな場合に理由なんてありません。私は日頃から猫を敬愛けいあいするもののひとりではありますが、仲良しの子猫が不快を感じているのであれば、他の猫を追い払うことなどいとわない。ふだんは知らんぷりをしていても、いざとなれば親愛なるものの側に立つ。それが愛という不条理であります。
私は立ち上がり、夜の侵入者を追い払い、続けてみっつクシャミをした。

その夜、遠くで二匹の決闘の声が上がった。

◇ ◆ ◇ ◆

緑色の甲殻こうかくを持った一センチに満たない小さな虫が飛んできて、読んでいる本の左り上の、「の」の字の上にピタリと停まった。オレンジ色の頭と緑色の眼、黒い足とまだらの長い触角を持った小さな虫。黒い足の先にはまたオレンジ色の粒がある。甲虫は、触覚を動かしながらゆっくり「そ」の字まで歩いて行って、それから太陽の方へと飛び去った。

グレイはしばしば現れるようになった。レダはその度に不快を示し、私がグレイを観察しようとすると「Who are you looking at, darling?」(ダーリン、あなた誰を見てるの?)冷ややかな眼差しで、視線を遮りツンと澄ました。

「ねぇ、グレイって言う呼び方可哀想だわ。彼女にも名前をつけてあげましょうよ!」
C嬢はそう言うと、「そうよ、それがいいわ!」とひとりで続け、素敵な思いつきにうっとりとした。……ふむ。大変よろしゅうございますが、もしや昨今の猫戦争のことをご存じではない?視線に「王国の検閲けんえつ」がかけられている私には、何も言えることはないのであります。
C嬢はグレイと仲良くなることを決めた様子でした。時々チーズを与え、やがて「アルテミス」と呼ぶようになった。相変わらず猫の年齢に検討けんとう はつかなかったけれど、その身体の大きさから、グレイ、改めアルテミスは、レダよりも一年ほど年長に思えた。二匹が近づくとケンカになるので、私はアルテミスからは距離をとった。「決闘」の声は、毎晩続いているのであります。

さて。
『最初の問題は、いつも「女」性によって生まれる』
そういうことを云ったのは、一体どこの文化だったでしょう……

「毎日新鮮」と書かれているミルクが次第に古くなり、A君と私は買い出しに出かけた。買い物のついでに港町へ回り、オリーブ畑の斜面にある土地の登録手続きを進める。C嬢には冷えた麦酒を、レダには「グルメ・ゴールド」と書かれた缶詰をお土産に浜辺の家へ戻って来ると、中庭でC嬢がアルテミスを撫でている。食卓の下にはレダ。ふぅむ、私はイヤァな予感がするよ……
流石にこんな状況で、C嬢の「お友達」を邪険じゃけんに扱うのは気が引けます。人間にだって色々とある。キッチンに紙袋を下した私は、買ってきたばかりのミルクを開きふたつのボウルに均等に注いだ。キッチンから出るとレダが足元にまとわりつく。

「ねぇこれ、アルテミスに……」
了解したC嬢が立ち上がると、アルテミスも彼女を追う。C嬢が近づいて来る。アルテミスも近づいて来る。思わず、二匹の距離が縮まった。 にわかに高まる緊張。次の瞬間、レダは飛び跳ね(ふぎゃぁ!)アルテミスの顔を鋭く打った。

『最初の問題は、いつも「女」性によって生まれる。そして、最初の失敗は、いつも「男」性によってなされる』
そういうことを云ったのは、一体どこの文化だったでしょう……「過ち」は、いつも冒した後に気づかれる。

「Be friendly, Leda!(レダ!仲良くッ!)」
私は思わず叫んでいました。……なんという平和的人類の発想……そしてこの種の優等生的思考回路は、時に野生の期待を大きく裏切る。レダは確かに過敏ではありましたが、アルテミスはもっと狡猾こうかつであったね。私の叱咤しったに対する、レダの思いも寄らぬ驚きに、私は自身の失敗を知った。崩壊ほうかいする信頼関係の背後で、アルテミスが甘い鳴き声をあげた。

◇ ◆ ◇ ◆

光に当てられて白が恐ろしく白く、光にえぐられた黒が果てし無く黒い。激しい白と黒との間にあって、潮と熱の風に砂を塗られた原色が、申し訳なさそうにくすんでいる。

猫を怒鳴ったことが「失敗」ならば、人類の歴史はおよそ失敗の連続であります。餅に噛み付いた猫は「馬鹿野郎!」とののしられ、お魚くわえたどら猫は、毎週裸足の主婦に追いかけられる。それはノスタルジックに微笑ましい風景なのでありまして、たまたまの些細ささいな行き違いなど、大抵は時間が解決してくれる。そう、私たちにそんな「時間」があるのなら……

島を去る日が近づいていました。翌日のディナーにレダは姿を現さず、その日からA君と私は港町での用事が増えてきた。
アルテミスは頻繁ひんぱんにC嬢の元へと通い、港町から戻って来ると、灰色の猫を目撃する方が多くなった。私の心には、今やぽっかりと猫型の穴が空いております。

 

Illustration for Log de Voyage

Illustration by Kaori Mitsushima

 

——徹底的に遊び疲れた夏の太陽が、やがて金色に燃えながら水平線へと落ちてゆく——

久しぶりの海水浴を楽しむA君とC嬢をよそに、ひとり浜辺の家に戻って来ると、中庭のテラスでレダが眠っております。「Hey, Leda……」私は近づき頭を撫でる。レダは眠たそうに目を開き、首をかしげながら手のひらに頬をこすりつける。まだ半分眠っていたのかもしれません。それは私の知る、無邪気な子猫の仕草でありました。

夕方に港を出て、翌朝のアテネに向かう船に乗る日がやってきました。
A君はアテネで展覧会、C嬢はこれからイタリアへ渡る。ふたりとも朝から荷造りで忙しい。朝食の食器を海ですすいで戻って来ると、テラスと母屋の細い通路で、レダが私の傍を駆け抜けて行った。

「レダ!」
私は声を上げました。レダは振り返らない。

遠ざかるカフェ・ラテ色の後ろ姿が、やがて夏の太陽に眩しく融けて行くのでした。

 

back to index

 

 

 

 

 

——————————
【Log de Voyage】 は毎月一日更新です。次回をお楽しみに!

 

text and illustrations © 2016 Log de Voyage