「レダ」は猫である。レダは私とドイツ人の友人A君とが、ギリシャの島に到着するとすぐにやって来て、共に生活をするようになった。
最初に彼女は、我々の浜辺の家の中庭を通り抜けようとしていた。ベッドルームのある母屋から出てきた私を見かけると立ち止まり、薬缶でも眺めるように私を見つめ、それから「ニャー」とひと声鳴いた。私は日頃より猫を崇拝するもののひとりでありますが、不幸にも身体は不治の猫アレルギーに冒されている。故に、突如の止まらぬクシャミに襲われぬかとしばらく身構えてみたのですが、こちらを見つめるレダの背中の丸みが思わず愛らしく、やがて私もレダを真似て「ニャー」と云い、それから離れであるキッチンの方へと歩いて行った。
浜辺の家には電気が通っていない。水道も止まっており、我々アーティストは夏のサヴァイヴァルキャンプを決め込んでいる。身体は海で洗い、あるいは石鹸を持ってぬる湯の沸き出る浴場へと出向く。厠の水は使用したものが次のバケツを汲んで置く決まりであります。夜にはランタンに火を灯し、緊急の場合にはガソリンで動く発電機がある。日が暮れては月が昇る。夜空には白鳥座が瞬いている。
古いルノーが一台。数日おきに七キロほど離れた近所のグローサリーへと買い出しに行く。日持ちしないものは諦めるより仕方がないけれど、買い出しの日には新鮮な野菜や乳製品が揃っている。近所の農家のニコが時々、羊たちを散歩させた帰り道に、オレンジと交換する卵を持ってやって来た。ニコの農園にはオレンジの樹がない。
よっぽど冷やしておくべきは鉄のざるに入れて、石と一緒に海に沈めておくが、大抵のものはキッチンに備え付けられている「電気の通っていない冷蔵庫」に入れておけば事足りる。この辺りの石造りの家は、日陰であれば夏でも涼しい。つまり、これは「冷やす」というよりも、ネズミ対策なのであります。
「電気の通っていない冷蔵庫」を開けてみると、前日のミルクが半分以上残っていた。私はソーセージとチーズを一切れづつ皿に乗せ、ボウルにミルクを注ぎ中庭へ戻る。意志の疎通には数秒とかからない。害がないと知れるとレダは、トトトっと軽やかに駆けて来た。一体、猫に駆け寄られる幸せを、何と形容出来たものでしょう。こうして人はバステト神の僕となる。私は葡萄の蔦の這うあずまやの柱の下に皿を置き、傍にある椅子に腰掛けた。どうやら猫アレルギーは出ない様子です。
レダは好奇心が旺盛だった。白と、クリーム色が混じったカフェ・ラテのような毛並み。ハムよりもチーズを好み、ミルクに浸したパンも食べた。チッチッと舌を鳴らすとちょこちょこと後をついて来て、これがミルクの合図となった。
風に揺れる雑草の穂先に飽きることなく延々と戯れ、キリギリスを追っては飛び跳ね、手の届かんばかりの位置に蠅が止まれば、低く唸り尻尾を揺らして悦んだ。喉に何か問題があるのか、鳴き声は少し掠れていた。猫の年齢などに私は検討もつかないが、その無邪気さから、ひと冬を越した最初の夏ではないかと思われた。つまりレダは、人間の手のひらに頭をこすりつけるやり方や、ひっくり返って腹を見せながら身構える方法、あるいは足首に身体をすりよせながら延々と八の字のリズムを描く仕草を、完璧と思える無邪気さと共にやってみせたのであります。
◇ ◆ ◇ ◆
「うぉぅ!」
叫びながらA君がキッチンから飛び出して、葡萄の蔦の這うあずまやのテーブルの上へと駆け上がった。おおっと、何ごと?
「蛇!」
……ウソでしょ? 蛇とおでんの大根は大嫌いであります……
A君はよっぽど混乱していた。たとえ蛇に驚いたとしても、食卓に駆け上がるのでは意味が判らない。大げさな調子で「大っきいんだって!」心なしか嬉しそうにも見えるのです。
隣で丸くなっていたレダが頭をもたげ、プルンと耳を瞬かせた。中庭とテラスを囲んだ三棟の建物。十平方メートルばかりのキッチンはちょっとした「離れ」で、入り口は中庭に、窓はあずまやに面している。裏手には水の出ぬシャワーとトイレ、中庭に茂る雑草が、入り口の扉にまで達している。実際、蛇が侵入するには最適な環境。扉の下にはくぐってくれといわんばかりの隙間もある。私は(やれやれ……)手元の廃材を握り締める。特にアイデアがある訳でもない。せいぜい棒っきれでも振り回して、キッチンから蛇を追い出せれば好い。背の高い庭の雑草は、翌日ニコと一緒に刈ることにしている。
「どこ?」
開けっ放しのドアから中へ。
「右のコーナー!」
A君が外から叫んで返す。どっち向きの右だか判らない。
「うぉぅ!」
流し台の裏を這う黒い影を目撃した途端、私は飛び出して、あずまやのテーブルの上へと駆け上がっていた。マンマミーヤ!A君!「大げさ」を疑って申し訳ない。あれは大蛇だ。そして大蛇を目撃した直後は、確かに食卓に駆け上がるに限る!
どうする?A君と顔を見合わせる。
夕食を食べる必要がある。楽しみにしていた夕方のワインも。
キッチンを飛び出した際に私は、ドアを力いっぱい叩き付けてきた。ならば、蛇はまだ中にいる。それでなくとも窓越しに見守っていたA君は、蛇が逃げたところを見ていない。ゆっくりと窓を押し開ける。電気の通っていない冷蔵庫やオーヴン、流し台から床、壁、棚……木の棒で届く範囲を突つき回す。動くものは――ない。
「いいこと思いついた!」
そう言うとA君は自室へと走り、しばらくすると何かを持って戻ってきた。
「これ!」
昆虫が嫌う匂いを発生させる、小さな木片のようなものだった。
「これで燻し出そう!」
ふむ。
木片を五つ、銀の皿に乗せて火を点ける。するすると煙りが立ち上がる。実際、ひとつでも充分だと思われるところ、ひとつ、またひとつと増えて結局五つとなった辺りが、我々の恐怖心の算数的証明であります。
「さて」
A君は私を見つめる。
「さて?」あは!好い質問だね!あはははは!あはは、ははは、はは……沈黙。
……ウソでしょ?
グローサリーで買ってきた「だけ」の、昆虫が嫌う匂いを発生させる木片を、五つばかり提供することと、危険地帯での特別任務ではまるで労力が釣り合わない。大蛇に絞め殺されたらどうするんだ?
◇ ◆ ◇ ◆
窓から室内に滑り込み、部屋の中央に皿を置く。
ウィスキーにウゾ、夕方に開けようと思っていたボルドー。すべてのアルコールが保管してあるこの小さなサマーハウスキッチンは、今や恐怖のアナコンダハウスと化した。壁を這うパイプ、ダクト、ケーブル、チューブ、それらは実に忌々しく、蛇の親戚の様であります。こんなところにいられるか!さようなら酒類、きっとまた戻ってくるよ。
「何か出た?」
緊急避難所兼対策本部でもある食卓の上から、A君は煙りの立ちこめる様子を観察している。
「いや……」
抜けるような青空、初夏のギリシャ。神々しいエーゲ海の浜辺に打ち寄せる波の音。イワツバメのさえずる平和な午後に、臆病なアーティストたちは、小さな窓から仲良くキッチンを覗き込んでいる。これがクラシック・コメディであるならば、パイプをくゆらすシルクハットにネクタイを締めた紳士的な蛇が、尻尾でステッキでも振り回しながらウインク、背後をゆうゆうと去ってゆくのでしょう。
「何か見える?」
「いや……」
「この煙りって効くのかな?」
「さぁ……」
「蛇に鼻ってあったっけ?」
「うぅん……」
コメディ調の平和な午後は、ゆっくりと過ぎて行くのであります。
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Illustration by Kaori Mitsushima |
さて。
今ここに、宇宙一五〇光年の彼方から、格調高き星の旋律が一縷 の光となって、静々と地上へ舞い降りる様をご想像頂きたい……タンタン、タンタン……
厳かなる宇宙の律べは、どうやら浜辺の廃屋の離れの裏手の、厠の傍から聞こえて来る……タンタン、タンタン……
それはA君の故郷を流れる青く美しきドナウの如く、あるいはたおやかに力強く、翼を広げる白鳥の羽ばたきの優雅にも似て……タタ、ターン、果たして、キッチンの裏手を覗き込んだA君と私がそこで目撃するものは……タタ、ターン、ゴムチューブのねじれ上がるが如き蛇の一匹の、硬直したその黒い曲線の塊りを打ち叩きもて遊ぶ、一匹の無邪気な子猫の姿なのであります……タン、タタン!
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【Log de Voyage】 は毎月一日更新です。次回をお楽しみに!
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